東京から北陸新幹線で約2時間
いま注目を集める町がある。そこは東京から北陸新幹線で約2時間で行ける富山市に存在する。富山は北陸新幹線が通る主要駅の中でも、まだまだ旅行客が多いとは言えない土地なのだが、近年はとくに食通といわれる人たちが集う場所になっているという。
そこは富山駅からクルマで北へ約10分、路面電車の富山港線で約20分のところにある東岩瀬町。
“岩瀬”として知られる場所だ。ここは江戸時代後期から明治にかけて北前船の交易で栄えた港町で、旧北国街道に面したメインストリート「岩瀬大町・新川町通り」には、北前廻船問屋「森家」(国指定重要文化財)をはじめ、江戸、明治時代の面影を残す建物が整然と建ち並んでいる。
しかし、昔の建物をそのまま残しているだけという場所とは趣が違う。まさに整然という言葉がぴったりな風情で、500mほどある一直線のストリートは地面が通常のアスファルトとは違い、土をイメージしたのかベージュ色で整えられており、日本のストリートでは数多くで見られる電柱や電線がない。その街並みは美しく魅力的だ。
さらにこのストリートの建物はお飾りではなく、それぞれの建物が、銀行や商店、工房、ギャラリー、レストラン、ブリュワリー…と、さまざまな形態で運営されている。いまも現役、生きているのだ。しかも、この地に軒を連ねている寿司店やイタリアン、フレンチなどのレストラン、日本酒店、器作家、ガラス工房などは、どこもハイレベル。つまり腕利きの魅力的な人材が集まってこの地を作り上げているのである。だからいま “岩瀬がおもしろい!” と、国内外の食通たちから注目されているのである。
町を美しく再生したいと想う仕掛け人
この岩瀬だが、自然にこのような形になったわけではない。かといって行政が整備したものでもない。町を美しく再生したいと想う仕掛け人がいたのだ。その人物が、富山を代表する吟醸酒「満寿泉」の蔵元、明治26年創業の「桝田酒造店」5代目当主である桝田隆一郎だ。
伝統を守るだけでなく、積極的な世界進出やジャンルを超えたコラボレーション、新しい酒造りなど、常に先を見据えた思考の持ち主だ。彼に岩瀬の町について、日本酒について、今後のビジョンについての話をうかがった。
まず岩瀬の美しい街並みについてだが、当初はこれといった構想は特になかったそうだ。ただ、本人は覚えてないらしいが、中学生の頃に町をキレイにしたいと同級生に語っていたという。当時、本阿弥光悦の光悦村についての本を読んでいたこともあり、それが発想の元になっていたのかもしれないと語る。光悦村とは、書、陶芸、蒔絵、茶に秀でた江戸時代初期の芸術家、本阿弥光悦が営んだ京都・鷹峰の芸術村のことである。現在の京都市北区の鷹峯街道を中心に広がる地域で、そこに光悦の屋敷を中心として家々が立ち並び、文化人や職人、芸術家たちが集ってきたことで、独自の芸術・文化が形成されていったと言われている場所だ。
中学生の桝田少年は、すでに本阿弥光悦がつくり上げた光悦村の在り方に触発されていたのだろう。数十年後に、実際に町づくりのために動き出したとき、それがベースとなったようだ。
取り掛かって25年
桝田氏が岩瀬に刻んだ第一歩は、31歳の時につくった蕎麦屋だった。2022年の現在56歳なので、25年前ということになる。きっかけは、しばらく滞在していたヨーロッパから帰国した際に見た、人がいなくなった岩瀬の町だった。本人も「2ヶ月以上外国に住んでみると、外国人の目で日本が見れる、外国人のような発想ができるようになるような気がする」と言うように、「外からの目」で見た岩瀬は、本当に何もない町に成り果てていたのだった。
日本の1990年代後半は、少し前のバブル経済崩壊もあり、地方都市のほとんどが寂れたシャッター街となっていた。図らずも自身の故郷も同じ状態だったのだ。岩瀬のメインストリートからは商店がなくなっており、唯一存在したのが、いまも残る北陸銀行だけだった。あとはすべてシャッターが閉まっていて、建物の持ち主は東京や大阪など大都会へ行ってしまい空き家となっていた。
いまの岩瀬を見ていると、四半世紀前にそんな状態だったとは、俄に信じられない話だ。
彼はフランスにいるとき、多くのワイナリーを巡っている。そこにはボルドー、ブルゴーニュ、シャンパーニュといった、世界的にも有名なワインの産地があり、その土地土地のワイナリーを巡っていると、同じ国でもそれぞれ違う文化があることがわかる。田舎といえどもそこには豊かな暮らしがあり、誇れる美しさがあったのだ。日本もそうでなければならない。ヨーロッパに一定期間住んでそれらの文化を体験したこともあり、故郷との落差に愕然としたのである。町の荒廃への驚きと、家業である日本酒への危機感、そして何より自分の故郷を誇れるものにしたいという思いが、現在の岩瀬を形づくる原動力となったようだ。もちろん、岩瀬のポテンシャルを十分に承知しているからこその想いである。
やっぱり食とクラフト
町、すなわちストリートを整備する場合、まず商店をつくらなければならない。桝田氏は、食とクラフトに絞ろうと考えた。そして、行動に移した。まずは食事の席で意気投合した作家や料理人に「岩瀬に来ないか?」と自ら声を掛けて行ったのだ。そして賛同する人が増え、店ができ、町が形成されていった。
岩瀬に来た人物の中でも大きかったのが、2人のキーパーソンだ。ひとりはガラス作家の安田泰三だ。彼が来たことで、彫刻の岩崎勉も来ることになり、その後、漆作家の橋本千毅がやってくるなど、とてもいい連鎖が生まれたのだ。食の面でその役割を果たしたのが『ふじ居』の藤井寛徳だった。その後、フレンチ、イタリアン、ブリュワリーなどが出店したことからも、その影響力の強さがわかる。やはり、富山、石川、福井という近隣県のトッププレイヤーたちの求心力はとてつもない。
現在、岩瀬にはフレンチの「カーヴ ユノキ」、割烹の「御料理 ふじ居」、イタリアンの「ピアット スズキ チンクエ」、クラフトビールの「Kobo Brew Pub」、寿司の「GEJO」などの飲食店。それに木彫家の岩崎努、陶芸家の釋永岳、そして、ガラス作家の安田泰三など、一級の職人たちがアトリエを構えている。彼らが店舗やアトリエとしている建物は、古い魅力的な日本家屋をリノベーションしたもので、外観にも統一感がある。それが美しい町並みを形成しているのだが、建物内はそれぞれの職種にあわせた個性的なものになっている。
独自の文化を持つ町
町は建物もストリートも整備され、そこに入る人たちも錚々たる顔ぶれが揃い、彼らも力をつけてその世界では名の知れた存在になった。先に述べた光悦村ではないが、もはや岩瀬は食とクラフトに特化した独自の文化を持つ町になったと言っても過言ではない。しかし桝田氏は、現在の“岩瀬”の完成度を「まだ5%くらい」と言う。初めて蕎麦屋をつくった25年前だったら、いまの状態を完成と捉えたかもしれないが、知識がアップデートされ、町への満足度のハードルがさらに上がっているからだ。となると、あと95%。まだまだはじまったばかり、ということになる。話を聞いていくと、桝田氏の頭の中は岩瀬だけには留まらず、富山全体がその対象となっているようだ。
「たとえば、ホテルがひとつできれば、そこが核になってさまざまなお客さんが来るようになる。自然を見ると、富山には海があるし、山もある。ビーチハウスをつくることもできるし、街と山と繋ぐサイクリングロードをつくっても面白い。だから、まだまだ5%です。」
富山のあらゆるものが対象となれば、数年前にはじまった『IWA5』のプロジェクトも合点がいく。桝田氏も関わる白岩酒造がつくりだす『IWA5』は、あの『ドン ペリニヨン』の醸造最高責任者を28年もの長きにわたって勤めた巨匠、リシャール・ジョフロワが日本酒に魅了されて動き出したプロジェクトだ。その効果は絶大で、ジョフロワ氏の知名度と信頼によって、世界中の愛飲家の目を富山に向けさせている。毎年出荷される『IWA5』は、世界中に出荷され、あっという間に売り切れる。もはやそれは、富山だけに留まらず日本酒そのものに良い効果をもたらしていると言ってもいいだろう。
リシャール・ジョフロワが魅了された日本酒
ジョフロワ氏の日本酒への関わりは、伝統的な日本のそれとは少し違うようだ。まず、味や香りなどの要素が際立つ数種類の酒を醸造し、それらをアッサンブラージュ(ブレンド)して仕上げる手法で、それは長年シャンパンづくりに携わったジョフロワ氏ならではのものでもある。
その核となるテイスティングの場に立ち会った枡田氏は、凄まじいまでの集中力と記憶力に圧倒されたという。そしてそこには確固たるフィロソフィーがあり、それがブレることがない。見ているだけで学ぶことがたくさんあるというのも頷ける。その『IWA5』はジョフロワ氏を中心に、一流を集めたプロジェクトでもある。ボトルはプロダクトデザイナー、マーク・ニューソン、白岩の地に建てられた酒蔵の設計は隈研吾、アッサンブラージュのベースとなる数種類の酒を統括する白岩酒造の杜氏は、桝田酒造の出身者である。先に述べたようにジョフロワ氏の名声は世界中に広がっており、アメリカやフランスから、経済界のキーマンをも引き寄せる。それは彼がいないとできなかったスキームだ。『ドン ペリニヨン』の醸造責任者を28年勤めることができた彼の実力に信頼があるからこそ、世界も今、日本酒に注目し始めているのだ。
正真正銘のメイド・イン・ジャパン
『IWA5』は白岩で造られているので、正真正銘のメイド・イン・ジャパンである。ただ、アッサンブラージュという手法でつくられているのが、他の日本酒と違う。これは最終的な手法が違うというだけで、西洋のテイストにあう酒をつくろうとしているのではない。求めているのは正真正銘の日本酒なのである。
「リシャールがブレンドの材料に使うものはザ・日本酒という味のものばかりです。例えばオーク樽でエイジングしてバニラ香がするもの、貴醸酒のちょっと甘いものなど、ワイン好きが好みそうなものを使うというようなことはしないんです。」
あくまでも生酛などのトラディショナルな日本酒が『IWA5』のベースとなっており、生粋の日本酒を彼はつくろうとしているのだ、と枡田氏は言う。『ドン ペリニヨン』のトップを長年務め、世界のシェフとコラボレーションしてきたリシャール・ジョフロワが引退して日本酒をつくりにくる。枡田氏は「これは間違いなく世界で通用する酒である」と確信したという。そして、それは現実のものとなった。
だとすれば、彼の本丸である『満寿泉』も世界に受け入れられるのではないか?という質問をぶつけてみると
「行けますね」
ときっぱり言う。
「最近、世界が日本化しているように感じます。日本がヨーロッパ化しているところもあるが、世界の味覚が日本化している」というのだ。それはどういうことなのか。
枡田氏曰く、25年前ほど前までは、味噌汁を好んで飲む外国人は少なかったが、いまやイギリスのスーパーのレジ横には、インスタント味噌汁のチューブが置かれているそうだ。フランスでも、食事の際に赤ワインを飲むシーンが少なくなっているそうだ。料理自体に昔ほどバターやオイルを使わなくなってきており、ジビエもあまり出ない。だから日本酒に合う、というのである。
それほどヨーロッパの食文化が変わってきている。つまり、日本酒が普及する土壌は整ったと言えるのだそうだ。そうなれば富山には『満寿泉』『IWA5』がある。上質な2つの銘柄は間違いなく受け入れられるだろう。
酒はつくられた場所で、その土地の料理と嗜むのがもっとも美味しいと言われる。
だからこそ世界の美食家たちはこぞって富山にやってくるのだろう。日本有数の日本酒があり、岩瀬の美しい街並みと新鮮な山海の幸がある。その格別の味と雰囲気は、訪れなければ味わうことはできない。
富山以外の日本のいいところ
いまや富山だけでなく、日本の文化を世界に向けて発信できる担い手のひとりでもある桝田氏に、日本の中で好きな、オススメしたい場所は、と聞いてみたら、最初に出てきたのが黒龍酒造『ESHIKOTO』だった。
建築家ジョサイア・コンドルの曾孫が新しいセラーを作るなどヴィレッジ作りをしており、日本酒のプレステージをあげている場所のひとつでもある。そこには越前、禅のふるさとでもある曹洞宗『永平寺』の文化もしっかり残っている。宿坊があり、そこに入って、質素な料理と修行のようなことをした体験が、外国人の友人には1番印象に残ったらしい。さらには日本有数の観光地である京都にもオススメがあるという。それは嵐山の船。夜、幽玄な真っ暗闇の中で、桂川にかかる渡月橋を見るというものだ。やはりこれも日本らしい場所である。
桝田氏は故郷であり、現在も本拠地としている岩瀬を見事に再生し、美しい町並みを再現どころかブラッシュアップさせている。そして、こういった試みを富山全域に展開しようとしているいま、トヤマはとても面白い。
かつて富山は日本の玄関口である東京からはとても行き難い土地だった。それが7年前に北陸新幹線が金沢まで延びて、気軽に行けるようになった。かくいう東京住まいの筆者も今回初めて富山を訪れたのだが、また行きたいと思える印象深い街になった。
海もあり、山もある。酒も料理も旨い。食通が集まる場所という話には説得力がある。
枡田酒造 〒931-8358 富山県富山市東岩瀬町269番地 TEL: 076-437-9916 ウェブサイト:http://www.masuizumi.co.jp