先輩ふたりのトークイベントに呼んでもらって、広島の三原まで出かけた。新幹線の乗り換えをするのは初めてで、きちんとできるか不安だったけれど、やってみれば意外とすんなりいって、なんのことはなかった。
三原駅では、地元の方がひとり、改札の向こうで「小原晩」と書かれた紙を持って待っていてくれた。うれしくて、へらへらと駆け寄る。赤色の車に乗せてもらい、先についていた先輩たちと合流する。
東京で会っても、広島で会っても、先輩ふたりは変わらない。顔を見ると安心する、と思うくらいに、ふたりはやさしい。後輩になにかを望むということがない、後輩ならばそこにいるだけでよし、というような懐の大きさである。あまりの懐の大きさなので、わたしはつい、ほんとうに何もしない。できない。それはいけないと思ってはいる。
せっかく来たのだからと、船に乗って佐木島へ行く。危なくない程度に身を乗り出して、海を見る。瀬戸内の海は、波が少なく、おだやかだと教えてもらう。たしかに、船はそれを切るようにして進んでいく。抵抗をともなって進む、ということの、いびつな光。船のうしろをふと見ると、波が魚の尾のような形になっていて、納得のゆくかたちに思えた。海をゆくには、ああいうかたちがいいのだろう。
海風が前髪をぐしゃぐしゃにして、スプレーなどまったく役に立たない。どうでもよいと思いながら、やはり気になる。気になるけれど、もうどうにもならない。それでもなお、ポケットには櫛が入っている。そういう自分に、うんざりする。しかるに、櫛は使う。
島につく。自転車を借りる。海風で錆びた自転車にのり、島を漕ぐ。まぼろしの放課後がやってくる。存在しない放課後。存在しない同級生。存在しない言い合い。存在しない片想い。存在しない鬱屈。存在しない地元がわたしたちを見つめている。
