東京でのナイトライフとして近年ポピュラーな選択肢となってきているリスニングバー。仲間と気軽に訪れられて、リラックスしながら上質な音楽を楽しめる空間は、ミレニアル世代を中心にますます支持を集めている。本連載【OFF THE RECORD(オフ ザ レコード)】では、空間、サウンド、人々、物語にスポットライトを当て、さまざまな場所を紹介していく。
第9回は、東京・学芸大学にある「Record Bar Hellish APT(ヘリッシュアパートメント)」を訪ねた。ルールよりも直感を大切に作られたこの場所には、音楽とカクテル、そして会話を求めて夜ごと人々が吸い寄せられてくる。

学芸大学駅からほど近い裏通り。2階の窓から漏れる灯りを目指して階段を上ると、外界の喧騒は消え去る。紫と青の柔らかなネオンが室内を照らし、バーカウンターの上ではプロジェクターの映像がゆらめく。ヴィンテージスピーカーから流れるのは、会話を邪魔することなく空間を優しく満たす、温かくバランスの取れた音だ。カウンターの奥では、店主の佐藤剣(つるぎ)氏が自家製リキュールを使った個性的なフルーツカクテルを振る舞う。彼の気取らないフレンドリーな接客が、この店の心地よさを作っている。ここは一杯だけでも、あるいは一晩中でも、肩肘張らずに過ごせる「サードプレイス」だ。

オーナー:佐藤剣氏
ヴィンテージサウンドとジャンルレスな選曲
店に足を踏み入れた瞬間に、Hellish APTの核は音楽だということがわかる。ヴィンテージのJBLスピーカー、Luxmanのアンプ、 Technicsのターンテーブル、そして Allen & Heathのミキサーで構成されたシステムは、クリアで没入感のあるサウンドを作り出す。音の重みを感じさせる十分な音量でありながら、会話が自然に弾む温かみも兼ね備えている。
内装も音響の一部として考えられており、天井付近に設置されたアート作品のようなスケートボードは、実は音の反射を調整するための散音材として佐藤氏が作ったものだ。



音楽のセレクトは幅広く、シティポップやヒップホップ、ロック、タイファンクなど、ムードに合わせて変化する。「お客様が好きそうなジャンルの曲と、新しい発見になるような曲の両方をかけるようにしています。」と語る佐藤氏。会話から曲につながり、曲から会話に繋がるような、音楽と会話が共存する空間を意識しているという。

佐藤氏のお気に入り:山下達郎の『For You』、浅川真紀の『American Night』、ユセフ・デイスの『Black Classical Music』、トム・ミッシュの『Quarantine Sessions』
オリジナルカクテルと自然な味わい
バックバーには豊富なスピリッツが並ぶが、主役は自家製リキュールを使ったフルーツカクテルだ。よくあるシロップではなく、佐藤氏は新鮮な果実やハーブ、スパイスを使ってリキュールを手作りしている。お茶系のカクテルでさえ、茶葉から淹れることで鮮度と深みを守っている。
「クラシックカクテルを作るよりも、この店でしか飲めないカクテルを作ってみたいと思いました。」と佐藤氏は振り返る。その代わりに、彼はオリジナリティに心血を注いだ。


棚に並ぶ自家製リキュール。ベースはウォッカやジンから日本酒まで様々で、それぞれが店内で漬け込み・醸造され、オリジナルカクテルのための自然で独特な風味を生み出している。
「ヘリッシュ・ジントニック」や、リンゴとカルダモンを使った「スモーキーアップル」などの個性的なカクテルは、「ルーニー・テューンズ」などの遊び心あふれるヴィンテージグラスで提供される。独創的なカクテルとチャーミングなグラスの組み合わせは、この店の気取らずおおらかな精神を象徴している。


ドリンクは、日本のバーで一般的な極薄のグラスではなく、キャラクターのプリントが施されたヴィンテージグラスで提供される。また、豊富な種類のクラフトジンも揃えている。
現在では、客層の約半分は常連客で、残りは初めて訪れる人や海外からの旅行者だという。一人で音楽を楽しむのも、友人と語らうのも自由な、心地よいエネルギーが人々を惹きつけている。




アストリアから学芸大学へ:直感と経験の軌跡
Hellish APTがオープンしたのは2020年。そこに至るまでは、大胆な挑戦の連続だった。佐藤氏は、20代前半のころファッションデザイナーの道を志していたが、経済的な理由で諦めざるを得なかった。今度は「アメリカに住む」というもう一つの夢を叶えるため、100万円片手にニューヨークへ。英語も話せないまま飛び込み、Webデザインを学びながらアルバイトで生活を支えた。転機となったのは、クイーンズ・アストリアにあるバー「Hell Gate Social」で働いた経験だった。
「日本では、バーは緊張感のある特別な場所、非日常的な場所と捉えられがちです。でもニューヨークでは、みんなスタバに行くくらいの感覚で行くんです。完全に生活の一部という感じでした。」と彼は振り返る。一人でふらりと立ち寄り、友人と会い、気取らずに過ごす。その心地よさを日本でも形にしたいという想いが、新たな夢の種となった。

店名のHellishは働いていたバーHell Gate Socialへのオマージュであり、この場所がかつてアパートだったことからAPTとつけられた。
帰国後、Webデザイナーやディレクターとして足場を固めるのに10年を要したが、30代後半に安定と自信を得て、夢を実現させる準備が整った。「最初から明確なビジョンがあったわけではないのですが、オリジナリティのあるバーにしたい、ということは考えていました。」
そうして学芸大学に古いアパートの一室を見つけ、自らの手で解体し、直感と試行錯誤に従って今の形を作り上げた。


プロジェクターの映像が没入感を高め、照明の色合いの変化がバーの雰囲気を一変させる。
音楽、ドリンク、そして空間。そのすべてが、既存のルールに縛られず、佐藤氏が独学で模索し続けてきた「オリジナリティ」の結実である。入り口のサインに掲げられた「Good Music & Conversation」という言葉通り、ここには気取らない豊かさが満ちている。
バーでありながら、不思議と肩の力が抜けるのは、佐藤氏の飾らない人柄が店全体の体温となっているからだろう。おしゃれな先輩の部屋に遊びに来たような居心地のよさが、Hellish APTの最大の魅力だ。
Record Bar Hellish APT (レコードバー ヘリッシュ・アパートメント)
住所:〒152-0004 東京都目黒区鷹番2-20-2-14 角田十字街店舗 2F
営業時間 : 8:00 PM – 5:00 AM
定休日:日曜日、月曜日
Instagram: @hellish_apt