小原晩【たましいリラックス】vol.29 本を読む 

ある朝、目をさまして、iPhoneをひらき、なんでもないような感じで知らないひとが山のようなラーメンをすする短い動画をみていた。なんだこれは、と正気に戻った一瞬をとりのがさなかったわけではなく、何度も何度もとりのがし、寸でのところで、なんとかとり戻して、ベッドからでた。今日も何もできないような気がした。落ち込みそうになった。しかし人生における大事なところはここからで、今日は何もできないような気がしたからって、落ち込んだりしなくてよい。今日は何もできないことが決定しました。では、どうする。そういう心持ちで暮らすことにここ最近はしているので、私は洗濯ネットを買いに出ようと思った。

顔を洗って、歯を磨き、もこもこの部屋着からジャージに着替えて、部屋をでる。天気がよくて、うなる。歩きだす。歩いているうちに、何度かサンドイッチを食べたあのチェーンの喫茶店でサンドイッチを食べてコーヒーを飲もうかな、と思いつく。上着には文庫本も入っている。2年前くらいに何ページが読んで、そのままになっていた文庫本である。チェーン店に入り、BLTを注文する。テラス席に移動する。コーヒーを飲みながら、1ページめから読みかえす。うんうん、うん。朝と言ったが、もう15時だ。BLTが届く。かじる。うまい。一気にすべて食べてしまいそうだけれど、ゆっくり食べることにして、おいたり、飲んだり、読んだり、めくったり、かじったり、咀嚼したり、皿においたりを自分のリズムでくり返す。そうしていつのまにか、食べ終わり、飲み終わり、いくらかすすんだところで店を出る。

歩いて、近くの良いスポットに行くことにする。空がきれいにみえるところだ。この時点で、「本を読む」ということが今日の主題になっている。ついたらやっぱり空がきれいでうれしい。しばらくながめる。自分でも気づかないほどシームレスに本を読みすすめる。ふと顔をあげると、怪獣のぽんちょを着た立って歩ける赤ちゃんがこちらにちいさく手をふっている。まだ手をふる感覚を掴みきっていないから、手がやわらかなグーである。わたしも合わせて、けれども、もう手をふる感覚をつかんでいるので、指にちからのないパーくらいの塩梅で、手をふり返す。すると、あちらが笑って、そして拍手をした。みるからに、おぼえたての拍手である。初心者だからか、音がならない。けれど、そうだよ、拍手ってきもちだもの。見える祝福だもの。きもちを伝えるための動作だもの。遠くの人へは音がなければ届かないけれど、こんなに近くにいるのだから、あなたのその目、その仕草で、こんなにも伝わる。私は音の鳴る拍手でかえす。するとあなたがにんまあ笑う。私の腹から低い声で「かわいい」ともれでる。

日が暮れる。スーパーの二階で、無事、洗濯ネットを購入する。しばらくあてもなく歩く。古本屋に入って、一冊買う。カフェに入って、コーヒーを飲み、読みすすめる。また店をでて、あてもなく歩く。良いマンションがあれば、空室がないか検索する。ない。歩く、歩く、歩く。あてもなく歩いているひとは、見ればわかる。一歩一歩がどうもゆっくりすぎるから。

あと30ページほどになった文庫本を読み終わろうと、前に行ったごはんのおいしい居酒屋のカウンターで軽く飲もうか、と行くあてができる。けれど、あそこは少し感じが良すぎる。この本を読むにはもう少し雑多な……と思いながら、雑多でひまそうなタイ料理屋に入る。まだ19時半であるのに隣の席のおじさんがいびきをかいて眠っている。店員さんが「ごめんなさい……席変わりますか?」と聞いてくれて一気に店を好きになる。生春巻きとチャーンビールを頼み、また本の中へ入っていく。いびきのおじさんは目を開いて、ぐらぐらと前後に揺れながら、ガパオライスを食べている。香辛料の良い匂いがする。読みすすめる。もう一杯と、カオマンガイを注文する。カオマンガイを食べながら、読み終わる。

店をでて、歩きながら、本をすすめてくれたひとに連絡をする。小説と事実の距離、小説と気持ちの距離、小説と言葉の距離、小説と運動の距離。ひとりひとりが持っている自然なくせ。わたしのくせ。歩きながら、頭の中でぼんやりと考える。おもしろい本だった。

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小原晩

1996年東京生まれ。作家。歌人。2022年3月エッセイ集『ここで唐揚げ弁当を食べないでください』、2023年9月『これが生活なのかしらん』(大和書房)刊行。https://obaraban.studio.site

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