小原晩【たましいリラックス】vol.8 母の還暦小旅行

母が還暦をむかえた。

誕生日は良い宿に泊まろうか、と誘ったけれど、毎年夏休みになると家族で行ったホテルへ行きたいと言うので、そうすることにして、一応ちょっとだけ良い部屋を予約する。

母の誕生日の前日、実家に帰り、ホールのショートケーキを買って帰る。どうしてふたりなのにホールなんて買ってくるの、とちょっと怒られる。だって、誕生日ケーキはホールがいいじゃないか。ケーキにさしたロウソクをふき消したあとの、まわりにのこるにおいのことがとても好き。

朝起きて、母の作ってくれた朝ごはんをこたつにはいって食べる。しばらくしてから準備をはじめて駅まで歩き、かいじにのって、石和温泉駅まで。石和温泉駅にはグランドピアノが置かれていて、スーツをきた男のひとが静かにピアノをひいていて、それを少し遠くから気づかれないような距離で聞いて、慣れないクラシックを口ずさむ。それから、母と父がふたりで来たときに行ったのだという蕎麦屋で昼食をとる。

一瞬で食べきって、ホテルの送迎バスをファーストフード店にてホットコーヒーを飲みながら待つ。
チーズステイックなるもの頼んで、食べてみなよ、と母にもすすめる。お互いのくちびるから指先にかけてチーズがびよんと伸びる。これ、韓国のやつだ。こういうの流行ってたもんね。おいしいね。でも青のりはいらないね。とよせばいいのに、ちょっとした悪態をつくようになった私なのである。

送迎バスに揺られながら、ほんの少し上のほうだけ見える富士山に、あれ富士山だよ、富士山、ほら、あれ、ああ見えなくなっちゃった、あ、今、見えたのに、とずっと指さす。

ホテルについて部屋に案内され、ちょっといい部屋にしたからなのか、りんごがひとつとオレンジがふたつ、テーブルに置いてあり緊張する。さっそく温泉に入り、あたたまる。たっぷりの湯、ほんとうにうれしい。備えつけのシャンプーのにおいが、ちょっといやで、すぐに愚痴を言う。もういろいろ言うのはやめなさい、と母にすこし怒られる。乾かしてみると意外にもさらさらになって、けれどやっぱり好きなにおいじゃなくて、ムッとした顔のまま、ラウンジにてご当地ビールをのむ。生ビールを飲みたかったな、と思う。メニューにご当地ビールしかなかったのだ。さっき怒られたばかりなので、もちろん口には出さない。流石にうるさくなり過ぎているな、と心のなかで反省する。歳を重ねると自分というものが形成され過ぎるのかもしれない。

部屋に戻り、ベランダに出て日が暮れていくさまを眺め、ちょっと眠って、夜ご飯のビュッフェへ。平日に行ったから、おじいちゃんとおばあちゃんがたくさんいて、その元気に圧倒される。だれも文句を言っている様子はない。

部屋に戻り、お腹をやすめてから大浴場へ。やっぱり露天風呂は最高だ。私の好きなものは風とお風呂なのだから、当たり前だ。風を感じながら、あたたかい湯に身をしずめるうれしさったらない。母がさむいさむいと言いながら後から露天風呂に合流する。なんかすごい落ち葉とか落ちてるんだけど、と言うので、もういろいろ言うのはやめなさい、と昼間のぶん言い返す。気持ちは、わかるけれど。部屋に戻り、ぐっすり眠る。なぜか朝五時に目が覚めて、母も起きて、またふたりで風呂に入る。部屋に帰ってきて、ベランダから日の出の様子をみつめる。

浴衣からいつもの服に着替え、朝食ビュッフェを食べて、チェックアウトし、かいじにのって、実家まで母をおくりとどける。
私は明日から仕事があるのですぐにひとりの部屋へ帰る。

お母さん、還暦おめでとう。

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小原晩

1996年東京生まれ。作家。歌人。2022年3月エッセイ集『ここで唐揚げ弁当を食べないでください』、2023年9月『これが生活なのかしらん』(大和書房)刊行。https://obaraban.studio.site

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