小原晩【たましいリラックス】vol.26 大寝ぼう

昼の12時に改札前で待ちあわせましょう、ということになっていた。
前の晩は眠るのが遅かったけれど、べつにいつものことであるから、とくに気にしていなかった。枕に頭の重みを預けて、午前10時に起きようと、スマートフォンでアラームをかけた。最悪10時30分に起きればなんとかなる。
目をさますと、午前9時過ぎだった。ヨユー。まだもうすこしと目をつむる。

起きた。12時38分だった。ガーン。
飛び起きて、連絡をして、やさしい返事がきて、胸がいたい。とにかく準備をすすめる。こんな日に限って髪がわんさか踊ってる。胸がどきんどきんとして、やはり痛い。つい3日前も大切な打ち合わせを失念しており、ひとを待たせた。わたしはいったいどうしてしまったのか。なにかの病気なんじゃないの。そんなこと考えている場合ではない。もうボサボサのカピカピでいいから、部屋から出ていかなければ!

自転車にのって、向かう。それがいちばん速いから。
待たせたひとらは六階建てのスーパーで待っているとのことだった。一階のお惣菜コーナーをまわり、二階の野菜コーナーをまわり、三階のドラッグストアをまわり、四階のお洋服コーナーをまわり、五階のお布団たちを見てまわり、六階のあんまりなんにもないところをまわり、見つけられずにスマートフォンをひらくと、四階の大谷翔平パネルの前にいるとのことだった。

無事、大谷翔平の前で会う。出会う。出会えた!
こんな大人ですみません。ふたりにとても会いたかったし、今日のことはすごく楽しみにしていたのに。すみません、すみません、すみません。謝りのちょうどよい塩梅が見当たらなくて、ひたすら謝っている。相手はやさしいので、謝るたびにフォローを入れてくれる。フォローのバリエーションが尽きるほど謝るべきなのではないかと思ってくる。そういうことではないかもしれないとも思う。

もともと行く予定だった中華料理屋さんへ向かう。
待ってくれていたふたりは、この後中華料理を食べるお腹を残しながら、ぺこぺこのお腹に少しだけお寿司を入れてくれていたらしい。わたしだったらできるかなあ、こんなにやさしく、あたたかく、寝ぼうした人間の気持ちを考えて。できない。

よく来ている中華料理屋はすいていて、それは平日の昼過ぎだからなのだけれど、ボックス席に三人ですわる。談笑。まるで寝ぼうしていないみたいな感じで、話に入れてもらう。もう寝ぼうしていることを持ち出すことのほうがみんなにとってめんどう。寝ぼうしたわたしが冷やし中華をすする。この冷やし中華にはトマトが入っていませんね、と目の前のひとが言う。トマト。トマトの入った冷やし中華を食べて育ったひとを待たせたのだな、と思う。

つぐない、について考える。罪を犯したひとはどう生きていくべきなのか。こうして何度も自分の罪をはんすうしたり、はんすうしているという感じを出すと、まるで本当に反省しているみたいだけれど、わたしのこれは本当の反省なのか。つぐない。たとえば、更生するためのつぐないなのであれば、つぐないの本質は自分のためであるわけだけど、傷つけた相手のためのつぐないならば、わたしはずっとずっと不幸でいるべきなのではないの。思ったより麺の多い冷やし中華は永遠じみて、心の隅ではぼさぼさの髪が気になっている。そんなのはもうどうだっていい気もする。そんなことをこのふたりは気にしていないような気がする。

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小原晩

1996年東京生まれ。作家。歌人。2022年3月エッセイ集『ここで唐揚げ弁当を食べないでください』、2023年9月『これが生活なのかしらん』(大和書房)刊行。https://obaraban.studio.site

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