熟練の職人技が生み出す至高の金平糖に触れる。京都「緑寿庵清水」

今では日本の伝統菓子とされているものでも、元祖をたどれば西欧伝来のものは少なくない。代表的なものとしてカステラがあり、地域の特産となっている丸ボーロや鶏卵素麺もそうだ。

もう1つ忘れてはならないのが金平糖。最古の記録では1569年、宣教師のルイス・フロイスが、織田信長に金平糖を献上したとある。当時は、作り方は謎に包まれ、極めて貴重な菓子として、一部の貴顕の人たちだけが賞味できたという。

現代人には素朴な伝統菓子のイメージもある金平糖だが、技芸の域に昇華させた製法で世に伝えるのが、京都市の「緑寿庵清水(りょくじゅあんしみず)」だ。

一子相伝で製法を受け継ぐ

創業は、江戸時代末期の1847年。初代・清水仙吉が、百萬遍知恩寺の近くで暖簾をあげたのが発祥となる。仙吉の経歴はつまびらかではないが、別の用途で使われていた釜を得て、これで金平糖を作り始めたという。京都では同業者は他におらず、試行錯誤の連続であったようだ。当時の釜は現在の4分の1ほどの大きさであり、すべてが手作業のためできあがるまで2か月も要したという。

家業は、二代目 庄太郎、三代目 勇と受け継がれ一子相伝で継承されてきた。そして四代目の時代になると、それまでは砂糖味だけであった金平糖に果物などの素材を加える製法を試みた。素材が持つ酸や油脂は、砂糖の結晶を阻むため非常に困難な挑戦であったようだが「より多くの人に喜ばれる金平糖を作りたい」という四代目の情熱により、肉桂や濃茶など、多彩な味、色のついた金平糖を生み出した。

現在は、五代目当主の清水泰博さんが、創業の地で「伝統と革新」を理念に掲げ金平糖作りに励む。種類はいまや年間で約90品目もあるというが、丁寧に手作りで生み出している点は創業時から変わらない。当時からの「永く、広く愛される金平糖をお届けする」という想いのもと、2017年に「銀座 緑寿庵清水」、2019年には「祇園 緑寿庵清水」と直営店を構えた。

戦時下もつながれた金平糖の灯

もちろん、順風満帆でここまで来られたわけではない。語り継がれる逸話は多くはないが、開業以来の2世紀近くの間に幾多の辛苦に見舞われた。

例えば太平洋戦争時、多くの菓子屋が、原料の砂糖が手に入らず苦境に陥った。「緑寿庵清水」は、国が認定する配給所となり、一定量の砂糖を確保することはできた。その偶然がなかったら、金平糖作りは途絶えていたかもしれない。また当時は、午前3時頃から夜の8時頃まで作業をしていた。灯火管制で、照明をつけることは憚られる時勢であり、砂糖の分厚い空袋を全ての窓に張って、製造現場の灯りが外に漏れないようにしていたそうだ。

また、戦時中は清水勇氏が三代目当主であったが、海外に出征していた。敵弾を顎に受けるなど死地をさまようなか、軍から支給された食糧の中に金平糖を見つける。色、艶、形の品質の良さから、一目で「緑寿庵清水」のものだとわかったという。実家が京都でしっかり商いを続けていることを知り、涙が止まらなかったと後に述懐している。

一人前になるまで20年かかる職人技

「緑寿庵清水」は、製造の現場を工房と呼んでおり、店舗と扉1枚を隔ててすぐ隣にある。ふだんは非公開である工房を、特別に見学させていただいた。

そこは30畳ほどの広さもあるだろうか。その大半を、傾斜した4つの大きな釜が占めている。たくさんの金平糖が、ゆっくり回転する釜に合わせて上がったり、なだらかに下に落ちたりを繰り返し、潮騒にも似た音を奏でている。

釜1つにつき1人の職人がついており、「コテ」と呼ばれる鍬(くわ)に似た柄の長い道具で時折かき混ぜたり、金属の柄杓(ひしゃく)で溶かした蜜を振りかけている。

五代目女将の清水珠代さんが、次のように説明する。

「どんな金平糖も核となるものが必要で、ほとんどの金平糖に直径1㎜もないイラ粉と呼ぶものを使います。それを釜に入れ、高温の釜の上で糖蜜をかけ、コテを入れてはほぐす作業を朝から夕方まで毎日続けていくと、約3日目でイガという突起ができ、日々少しずつ成長していきます。そうやって約2週間かけてできあがります」

赤い金平糖作りに取り組んでいたのが、五代目の清水泰博さん。この色は、「空中すいか」という、空中に吊るして栽培したすいかの果汁だ。「空中すいかの金平糖」は、7月発売の夏季限定商品で、すぐ売り切れる人気商品だという。

工房内は非常に暑い。各釜は200度以上の熱を発しており、窓も出入口も閉ざしているのだから当然だ。換気扇が1基だけ回転し、職人たちに酸素を供給しているが、熱を外に逃すわけではない。

清水珠代さんが、話を続ける。

「金平糖の仕上がりは、室温、湿度、空気の流れの影響を受けやすく、職人が少しでも加減を間違えると、溶けたり、くっついたりしてダメになってしまいます。特にこれからの梅雨の時期に入ると、湿度調節が難しく、気を使います。夏になれば、昨今は気候変動の影響もあり、かなり厳しい暑さとなります。扇風機もエアコンも使えないので、工房内は60度近くにまで上がるのです」

そのような過酷な環境下で職人は金平糖の流れる音を聞き、五感を使って金平糖の状態を見極め、釜の傾斜角度、回転速度、火加減を調節していく。「蜜かけ10年、コテ入れ10年」と技術の体得に20年以上を要するというのもうなずける。

作業の手を束の間休めた清水泰博さんから、完成が近い「空中すいかの金平糖」をひとつまみいただいた。まだほんのり温かく、繊細で優しい甘さに、一瞬暑さを忘れる。

「究極」を追求する真摯な姿勢

陳列されている商品を見ると、そのバラエティの多さに驚くとともに、甘い金平糖ばかりではないことに気づく。例えば、京都本店限定の「特撰玉あられの金平糖」というのがある。中心核に特撰もち米を膨らませたあられを使い、加える素材は山椒や梅など、あっさりとした後口が抹茶の味を引き立てる。

清水珠代さんからその1つ、「紫蘇あられの金平糖」をいただく。先ほどの大変な作業風景が記憶にあるので、もったいないと思い、飴玉をなめるように賞味する。だが、噛んで味わうのが正式な食べ方だと教えられる。そこでもう1粒を口にいれ、上下の歯を当てる。甘さと塩気が絶妙に合わさった美味が、口の中ではじける。なるほど、封じ込めた味わいを堪能するには、噛んで食べるのが一番と実感する。

冒頭でも述べたとおり、1年のサイクルで約90品目が作られる。そのなかでも製造が非常に難しく、「毎年キャンセル待ちが出るぐらい人気」なのが、素材としてチョコレートや酒類などが使われた「究極の金平糖」と呼ばれる幾種類かの商品。通常、冷やし固めるチョコレートを高温の釜の上で結晶に仕上げるだけでも難しく、さらに油分が多いため分離にも気を使う。また、アルコールは熱にかけると蒸発するところ、酒本来の香りやコク、旨みといった味わいを一粒に閉じこめた。これらは、桐やガラスの箱に詰められ、事前予約で販売される(地方発送も可能)。

さらに、究極のなかの究極と呼べるのが、「究極 日本酒 十四代の金平糖」。1615年創業の蔵元、高木酒造の高級酒「十四代」を素材に用いた金平糖を、有田焼の老舗、深川製磁の手掛けたボンボニエール(菓子器)に詰め合わせた、まさに逸品。

京都の菓子舗と聞くと、伝統一辺倒というイメージがあるが、革新的な試みを続けているところは意外と多い。「緑寿庵清水」も、まぎれもなくその1つであり、今日も唯一無二の金平糖を求めて挑戦している。

緑寿庵清水(京都本店)
住所: 〒606-8301 京都市左京区吉田泉殿町38番地の2
営業時間: 10:00~17:00
定休日: 水曜(祝日にあたる場合は翌平日)
ウェブサイト: https://www.konpeito.co.jp
Instagram: @ryokujuanshimizu

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Takuya Suzuki

老舗翻訳会社の役員を退任後、ライター、写真家、ボードゲームクリエイターとなる。神社仏閣・秘境めぐりをライフワークとし、撮った写真をInstagramに掲載している。@happysuzuki

Photo by Ryo Namba

フォトグラファー/ビデオグラファー。東京で活動後、2023年に京都に移住。関西と東京の二拠点でフットワーク軽く活動中。最近の趣味は、落語、将棋、料理を作って妻が集めた食器に盛り付けること。 https://ryonamba.com

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